未知との遭遇、死の感覚について
やっばい、ふと何かに対して恐怖というか不安を感じてしまった
今の私の年代(高校卒業)特有の未知への恐怖や他人との繋がりに対して。
周りを適当に俯瞰して楽観的に見れる期間が終わる事が、自分の究極のアイデンティティーの崩壊に繋がるんじゃないかと不安になってしまった。
あまりに私が幼過ぎて、自分の世界が小さ過ぎて怖くなってしまった。
私は未だ煙草も、酒も、女も、やっていない。
私は今死んでいる気がする。
経験の放棄を起こしてしまっているのだ。
知識至上主義の私からすれば、これは大変な恐怖である。
未体験の事象について、私はそれの深度も形式も形状も動作も分からないのだから。
恐怖の具体的な物について、差し当って私は物理的な『死』は経験したと言える。
私の中の曖昧な道徳観念の下に書くと、身近ではあったが関係は互いに割り切っているような、そんな感じの相手。
学校の終わり、帰り際に連絡が来た。
年上の彼の訃報は私にとってあまりに理解にし難かったものだった。
泣けばいいのか。明るく振る舞えばいいのか。
結局、私はそこそこに哀しみを交えながら遺族の方々の配慮を受け、ぎこちない応対と手を合わせただけだった。
その時の感情は、憐れみや悲しみとは違い、あくまでも現状把握に務める自身のある種非情な感覚を感じつつ、それに対して酷くぼんやりとした涙擬きを振舞った私への小さな怒りだった。
書きつつ、脚色が強くなった自負を感じている。
具体的な行動を思い出して、書いていこう。
私は棺に収まった彼の白くなった顔を見て、全身の皮膚から実感の蜘蛛が這い回る感触を受けながら、隣の同級と一、二言の憐憫を交わした。
そしてまばらに空いたパイプ椅子に腰掛け、僅かに育まれた後輩としての友情や尊敬と少しばかりの遊んだ思い出とを、走馬灯の様に編集された脳内映像を見て、目を伏せて溜まった涙を拭った。
物語の様な書き方になっていないか、そもそも物語と日記とブログとの境界も理解していない為にその心配は無意味か。
しかし、これは侮辱にあたってしまうかが私は不安だ。
敬意はやはり払っていたし、それなりに思い出もあったし、助けられもした。尊敬も出来た。
所謂『オタク』である私との接点も多く、話題を合わせようと互いに譲歩をしていたように思う。
『死』といは概念なのだろうか?
物理的には脳機能、身体活動の停止、どちらも揃って意識が消える事が死だと考えられるが、
あくまで定義はされていないし、一生されないだろう。
解明される事の無い未知の世界。
人は、全ての物事の目的として安心を求めて行動する。
未知は恐怖だ。弾圧対象だ。下手に手を出す事は生物学に反している。
未知を恐れるのではなく、未知を捉えられない事に恐れている。
経験や知識に基づいた常識から外れた、本当に得体の知れない何かに直面した時、私は簡単に理解を放棄して発狂してしまうのだろうか。