まぁゆっくりしていけ(^し^)

適当に書き連ねさせて頂きたく早漏

運命的な恐ろしさ

個人的な内容になる。

俺は竹節虫、ナナフシが好きだ。

といっても、それ1本に人生捧げている訳では無い。単に好みというだけ。普通種を1匹飼っている。





ある日、仕事場に1匹のナナフシモドキが出た。





どれどれ、と見に行くと、君にあげるよと渡された。


まじまじと観察し、その魅力を散々ぱら確認すると、もう休憩時間も終わりだ、じゃあなと林に投げた。



そこに、たまたまコガネグモの巣があったのだ。

見事に引っかかって全身が張り付いた。
巣の本来の主を差し置いてデカい図体に、当主はおののいていた。

しかし、流石にまずいと、そこらの木の枝をとって投げる。

少ししか巣は崩れない。
もう一度。が、ダメ。


そうこうしてるうちに流石に仕事に戻らねば、という感じになってきた。周りの目もあった。危険だった。

結局、そのナナフシを巣にくっ付けたまま、仕事へ戻った。

心に靄がかかった1日だった。





というのがつい2週間ほど前。

無情なもので、そんなことをつい先程まで忘れていた。
人間とは都合がいい。


昼休憩のタイミング、いつもの場所に行くと、ナナフシが壁に張り付いていた。


そいつは、足に白い糸のようなものが付いていて、そこにゴミが付いていた。

その瞬間、恐怖と、運命と、己の人としての心の無さに、涙が零れ落ちそうになった。

正確に、いつの事だったかも思い出せない。
あの時の彼は、こうしてここに戻ってきて、また同じ相手と出会ってしまったのだ。

間違いなく、自分に会いに来たのではない。

たまたま、ここに自分が居たのだ。
あの時と同じく。



あの時、この後あのナナフシは捕まって死ぬのだろうか、きっと死ぬと思っていた。


そいつはそもそも、成虫になっていて、体が随分とボロボロな感じだった。
今にも寿命を迎えるのでは、と思えた。

そいつを巣にひっかけた時、そして逃げた時、俺は、

「きっと、俺が巣に引っ掛けなくても、あいつは寿命で死んでしまうだろう」



そう思ってしまったのだ。



怖い。


目の前の、このヨボヨボになった成虫のナナフシが、恐ろしい。


すまない、人間の傲慢を見せてしまって申し訳ない。

虫に人間の感情も価値観も届くわけが無い。
こうした感情は全て人間の自己保身の為のもの。

今こうして目の前で生きているナナフシは、何の考えもない。

憐れみも怒りも何も無い。分からない。


絶対的な強者として対峙してしまっている事実。
単純な力の差。許して欲しい。
何にも許されないと分かっていても、こんな断罪を求めても何も帰ってこない、全て自己保身と知っている。

すまない。命を弄んでしまった。すまない。




生き物と向き合うというよりは、生物全てと向き合うべきなんだ。


それが人間の為の、人間としての敬意だと信じていたい。
すまない。







追記:2020/10/01

このナナフシは死んだ。

木組みのパレットの隙間に、細い手足をしまい込むかのようにして、陽の光が眩しいからというように影に入って、ひっそりと死んでいた。



きっと、自分が見つけねば誰の目にも止まらないだろう場所で、死んでいた。



もしかしたら、その死の一端に自分が関わったかもしれない。





この地球で生きる人間として、自分が関わっていない死の現実を断ち切って生活している自分が、
たった一匹の虫の死に、ここまで動かされてはいけない気もする。

何故って、自分が今日まで生きてきたことで、今までに死んだ命が沢山あるのは明白で、その殆どに意識を向けなかったからだ。

その命のひとつに自分が優先度をつけて、やたらと可哀想可哀想と悲嘆にくれるフリをするのは、浅ましい。





全ては自分なのだ。
他の人間以外の死を認識しても、全ては自分。
意思疎通が生前に出来た訳では無い。

自分の意識で勝手に苛まれて、自分の中で完結する。

私はこれに浅ましさと愚かさを感じる。

それと同時に諦観と悲しみと、それが我々なんだ、自分なんだ、という愛おしさも感じる。我が身可愛さだろうか。




突き放す訳では無いが、それもきっと人間なのだ。
だから、人にしかこういうことは考えられないし感じられない。

人間の宿命なのだ。驕りでなく。
知恵を言葉に、独自の考え方に出力出来るものの定め。



その中で、少なくとも私は、この死をなるべく長く維持していたい。
この死をこうして記録に残しておきたいと思っている。
自分の中で、あの虫の死が形に残って欲しいというワガママ。エゴ。傲慢。





死に対して感謝や謝罪は無意味だが、それを受けた自分の今後の糧にすることは、人間に許された唯一の贖罪の方法。そうであって欲しい。
そうでなければ、他生物の死に無反応な、悲しみの生物になる。悲しい知恵になる。それは、冒涜だ。

虚無の暗黒との戦い

深夜2時。明日も6時半起きだが、ツイッターで見かけた話題について、discord投稿用も兼ねて雑記しておく。




創作アカウントの方で見つけたツイート、
小説投稿グループ内の話で、なろうに投稿した仲間内の作品に相互に評価を付けているグループがあるらしい。


これはサイト規約に違反している行為でBANの対象だ。


グループなんてネット上の繋がりで、今回のようにメンバー1人のツイートから拡散してバレてしまうなんてわかり易いリスクもあるのに、何故このような事をするのか。


その答えを辿っていくとあるキーワードに辿り着く。


それが『虚無の暗黒』だ。




虚無の暗黒というのは、
簡単に言うと『投稿作品への無反応』である。
検索すればもっとしっかり纏めてくれている人が出てくるので、そちらを参照して欲しい。




人というのは悲しいもので、自分の中の衝動で始めた創作活動のエンジンはいつしか切れるものだ。


いくら頑張ってもエンジンがかからず、その衝動もいつしか風化して廃棄してしまうのが大半だ。


昨今、若者が何らかの娯楽作品に全く触れないことなどそうは無く、それに対して大小様々な感銘を受けて日々を過ごす。
それは歌であったり映像であったり絵であったり、文字であったり。


少し逸れるが、
私は最近、友人から消費者コンプレックスという概念を教えて貰った。
元は卯月コウというVTuberからだそうだが、この言葉は現代の創作者にガッチリと当て嵌るモノを感じる。


未だしっかりと定着はしていない(そのリスナーと悩める創作界隈で認知されている程度)が、
言語化能力の高さと着眼点にセンスを感じる。
私は未視聴の非リスナーだが、こうした点を抑えている辺りに、現代で売れていく要素を孕んでいるのだろう。




本題に戻る。
この『消費者コンプレックス』を出したのは、
無論『虚無の暗黒』に繋がるからであるが、そもそも消費者コンプレックスとはなにか。
読んで字のごとく、消費者であることへのコンプレックスだ。


説明するまでも無いだろうが多少書くと、
何らかの作品を見て影響されて、
(なんで自分はこうした作品を見る側に居るのだろう)
(このくらいなら自分でも作れるのでは?)

となる事(これも検索すれば虚無の暗黒程ではないが諸々出てくる)だ。




こうした単純な劣等感と謎の自意識に触発されてエンジンが始動。
盛大に事故って悩めるソクラテスになる訳だ。


まぁ、根本的な話、衝動だろうが劣等感だろうが創作活動自体は良い事だし、媒体はなんであれ積んだ時間に比例して経験と技術はちゃんと身に付くだろう。




しかし、得てしてそうした絶好調の勢いが段々と冷えていく挫折感は感情として辛いものだ。
ましてや自分の中の理想や努力の結果を原動力となった『作品』と比べた日には、自分への絶望で創作以外の部分に支障が出るなんて事も考えられる。


そうした事を考えていくと、最初に書いたような悲しい傷の舐め合いをしてしまうのも理解出来るのではないだろうか。




こうした創作への想いを折られた多様なルサンチマンの先駆者の中で、そこから這い上がった有名な作品がある。




それが『ニンジャスレイヤー』である。

https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC

ニンジャスレイヤーって何?という方へ簡単に解説すると、
海外の人が考えた典型的な『間違った日本』で繰り広げられる独特なアクが癖になるサイバーパンク小説だ。




この作品、今でこそ知名度は高くアニメにもなり、根強いファンの多いコンテンツとなったが……


この作品の『翻訳』の地獄っぷりが、
『虚無の暗黒』という創作者への呪いとも言えるワードを生み出した。




下記のリンクはその地獄の日々と、その地獄からどう抜け出したかを翻訳チームが書いてくれた記事の再掲だ。




ここに、全ての創作者に伝わるべきものが詰まっていると思う。


https://diehardtales.com/n/nb16fc6d57e58





この作品飽和時代、
ユビキタス社会ではSNSYouTubeなどを通し、日夜新たな『作品』が排出されている。


目を向けられたい心も、自身の理想との乖離もあるだろう。

どこに自分を据えるか。考えてみて欲しい。

芥川賞・直木賞の決定を知り、自分の文学への認識を改める。

先日、第163回芥川賞直木賞が発表された。


芥川賞には、
高山羽根子さんの「首里の馬」
遠野遥さんの「破局」が、

直木賞には馳星周さんの「少年と犬」がそれぞれ選ばれた。


昨日、地元の蔦屋に行った時には在庫はどれも無かった。読みたかったのは「破局」だけだったが。

この話の続きをする前に。

私が2年ぶりにこのブログを更新することになった推移について、自分の現在について書いておく。





つい、2ヶ月ほど前。
高校からの友人とApex legendというゲームをやっていた私は、疲れたとゲームを中断し、自身の現状を語らせて貰った。

この時の私には悩みがあった。



就職し、新卒社会人として単身、田舎に移り住み一人暮らしを始めた私。

年下の同期とのふとした会話の中で、私が「働く意味」というものを持っていないことに気が付いた。


仕事は私の目標としていたものに就けた。


中学を卒業する前に、私が「やりたい事」の方向性は掴んでいた。
それに関連する資格を取れる高校を選び、高校の卒業後は、その分野の専門学校へ2年通った。

それまでの人生の目標が、そのやりたかった仕事をやる為の「就職」だった為、それが達成された今、私は何のために働くのか。その意義について考えたことがなかった。まさに目からウロコだった。

大げさに言えば、生きる目標が無くなってしまったのだ。



ということを、かいつまんで語った。

その友人は親切にも共に悩んでくれ、やがてひとつの答えに辿り着いた。

それが、文章創作グループ「Scriber works」の設立だった。


というのが2ヶ月前の話。

SNSと私自身のちぢれた人付き合いとを総活用し、現在、メンバーは8人という世帯になり、各々が想い想いの作品を投稿している。

このグループで私は便宜上、「管理人」という立場になった。
設立に直接携わったので当然といえば当然だろう。不満も無い。



しかし問題はあった。



このグループに加入した際、最初に目にする[ルール]から引用する。

「Scriber works」は、自身に降ってきた物語のアイデアを[記す・書き留める]事をし、それをグループに公開、批評していくルーティンを【継続】して行っていくグループです。

となっている。

この[ルール]の中には、『目的』が無いのだ。

これには私なりの意図があり、個人単位で明確な目標を持ってもらい、それの一助として【継続】を促すというものだ。
実際に加入したメンバーの全員がちゃんと目を通したかは別として。


この『目的』の意図が伝わったか伝わらないかは分からない。

しかし、目的も無しに創作活動が継続出来るだろうか。

「誰かに見て欲しい」「自分の世界を褒められたい

創作活動は、こうした承認欲求から始まる事が多い。
しかし、多くの同志が潰れるのも同じく承認欲求だろう。

あるいは、自分の思う理想の「世界」を体現して満足する人もいるだろう。
そういう人は長続きする。
関心は外に向いておらず、全てが内で完結しているからだ。後は『継続』するのみだろう。



私にも理想が、目標がある。
文章で人を唸らせる、人を変える。
そんな文章を、世界を書きたいのだ。
私がそうだったから。

その理想のために私は文章を書く。
その一助として「Scriber works」を立ち上げた。
私の理想の為、生きていく意味の為に文章を書く。
理想のために、共に歩んでくれる道連れが欲しかった。

あとは、『継続』だけだ。


目的意識も無く、歩めるのは強者だ。
最強の武器、「好き」を持っている。

現に、私は「好き」で今の仕事を勝ち取った。
多くの資格も取った。


文章に関しては、「出会い」を求めている節がある。

美しい言葉、文章、驚かせてくれる表現。
そうしたものを私も生み出したい。
これは紛れもない「好き」だが、どちらかといえば受け手側の感情だ。


これを成就させ、理想を成し遂げるには、少なくとも私が就職を意識した中学3年から現在までの6年間と同等の力を持ってして、ようやく形になる気がする。
単純計算ですらないが、そのくらいの意識はあった方がいいだろう。



高校の時の私のセリフを思い出す。

「俺は将来、ウィキペディアに載る!」

理想で現実は変わらない。

書いて読んで、全てを貪欲に摂取して着実に世界を見聴きする。
諦めるのは何時でも出来るから、歪でも形に。



賞、取れる未来はあるのだろうか。

芥川賞・直木賞の決定を知って、文学への認識を改める。

先日、第163回芥川賞直木賞が発表された。


芥川賞には、
高山羽根子さんの「首里の馬」
遠野遥さんの「破局」が、

直木賞には馳星周さんの「少年と犬」がそれぞれ選ばれた。


昨日、地元の蔦屋に行った時には在庫はどれも無かった。読みたかったのは「破局」だけだったが。

この話の続きをする前に。

私が2年ぶりにこのブログを更新することになった推移について、簡単に自分の現在について書いておく。





つい、2ヶ月ほど前。
高校からの友人とApex legendというゲームをやっていた私は、疲れたとゲームを中断し、自身の現状を語らせて貰った。

この時の私には悩みがあった。



就職し、新卒社会人として単身、田舎に移り住み一人暮らしを始めた私。

年下の同期とのふとした会話の中で、私が「働く意味」というものを持っていないことに気が付いた。


仕事は私の目標としていたものに就けた。


中学を卒業する前に、私が「やりたい事」の方向性は掴んでいた。
それに関連する資格を取れる高校を選び、高校の卒業後は、その分野の専門学校へ2年通った。

それまでの人生の目標が、そのやりたかった仕事をやる為の「就職」だった為、それが達成された今、私は何のために働くのか。その意義について考えたことがなかった。まさに目からウロコだった。

大げさに言えば、生きる目標が無くなってしまったのだ。



ということを、かいつまんで語った。

その友人は親切にも共に悩んでくれ、やがてひとつの答えに辿り着いた。

それが、文章創作グループ「Scriber works」の設立だった。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?感想

フィリップ・K・ディックの著名作
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?浅倉久志
を読み終えました。

正確には読み終えてから数日が経過していて、既に新しい本を買っているのですが。


読む時間が惜しいので感想だけ、少し。




思っていたよりもタイトルの通りの話ですっきりした感じはあります。
予測では、タイトルは雰囲気付けテキな側面が強そうだと思っていたので、良い意味で裏切られたかもしれません。

内容的にはまさにSFって感じで、
近未来、荒廃した地球、アンドロイド、火星移住と、これでもかとSF要素が詰め込まれていて、読んでいて大変浸れました。面白かったです。

しかし、この要素にバウンティハンターを×してきたのがまた良かったですね。

野生生物の死滅した世界、機械仕掛けの動物。
アンドロイドは人間と何が違うのか、人間は何故、アンドロイドを使役するのか。

個人的には、
知識の蓄積、コミュニケーション、自己判断、身体的要素などで個性が表現出来ていれば十分に愛情を持つに値すると考えているんですが、実際に確かめられるのは何時のことでしょうかね。


虐殺器官でも出てきた、植物状態の母の延命装置を止めるシーン、あのシーンに出てきた「生かされている状態の母は、はたして生きていると言えるのか?」といった感じの場面が思い返されました。


生きるとは、知識の蓄積とアウトプットだと私は思っているんですよね。
人間が愛情を持てる沢山の要素を確実に持っていれば、それは確かに連鎖していくと思うのですが、SF世界は中々にディストピアが好みのようです。


総評として、ジョージ・オーウェルも言っているように、この本にはSFの基本としての疑問の定義等々が全て詰まっている為、完全に読むに値する1冊です。


名作SF入門として最適でしょう。アンドロイドと人間の狭間で揺れる主人公に何かを見いだせるかもしれないです。たぶん。

「華竜の宮」を読んだ感想

上田早夕里さんの「華竜の宮」を読みました。


買ったのは今年の初めとかだったんですが、その前に積んでる本を消化してたらいつの間にか生活も変わってしまいました。


以下ネタバレあり総評


2010年に出版された本作は、あの東日本大震災の前年に生まれました。
あの災害とどう関係があるかというと、やれ地殻がどうのマントルがどうのと作中で描かれるからなのですが……
ある意味、想像上のパンデミックが実際に起きてしまったという最早そのままでもSF小説に出来そうな事が起きてしまったんですよね。
いやぁ面白いですね。

本作品は、リ・クリテイシャスという大規模な海の温度上昇によって南極の氷が溶かされ、海面が260メートル上昇した大災害によって、人類は海で暮らす海上民と僅かに残った陸地で暮らす陸上民とで別れた世界です。


独特な設定です。この「海上民」というのも遺伝子操作された人間であり、海で暮らすために様々な機能を備えていたりと、SFって感じがハンパないです。

海の中には独特の生態系が新たに築かれ、陸上では陸地の奪い合いや新たに出来上がった政府や連合が日々他の勢力を出し抜く為に画策している世界。

主人公は青澄。
「外洋公館」という、海と陸との交渉が専門の場所で働くお役人です。

そしてそのサポーターとして、これまた近未来的な「アシスタント知性体」のマキ。
マキには身体が無く、「ボディ」という体を用意されなければ行動はできません。
しかし、アシスタントというだけあって、パートナーとのリンクをすることで、脳内物質の調整からクリアランスレベルによる深い部分の情報操作まで可能なのです。
面白い。

マキに人格はありませんが、パートナーとの生活の中で各々それらしきものが育まれていく様子が下巻にて読み取れました。


少し感情的に書かせてもらうと、非常に感銘を受けました。こういったら上から目線な感じですが、本当に凄かったです。素晴らしい。ここまで練られた作品があるのか、といった感じ。

海と陸、朋と知性体。対比何でしょうかね。

どちらかと言えば、海で暮らすのと陸とでのヒューマンドラマ的な内容よりは政治寄りで、それに世界観が加わって広がりを見せていく雰囲気。面白い。


いやぁ面白い。マジで面白い。


最初買う前にどっかのレビューで翠星のガルガンティアとか見たような気がしたけど、あれはあれで海上世界だけど、これもマジで面白い。なによりリアリティって感じ。
海上面の上昇と共に発生する難民の受け入れを拒む各先進国。そのためになりふり構わず人体実験を認可し、殺戮兵器を生み出した人間。負の歴史。


そして物語の終盤で明らかになる「華竜」。


そうまでして人間は生きる価値があるのか。
生きること自体が罪なんだ。産まれてしまったがために必死に生きようともがく獣舟。袋人。

生物の生への執着や、地球から人間へ当てた終焉の感覚が大変そそらせてくれました。
大変満足です。感謝。この小説と巡り会ったことに感謝。マジで買って損は無い。面白かった。

淘汰せし身勝手な我々

結論から言おう。我々はワガママである。

 

 

あなたには嫌いなものがあるか?

 

私はデブとバカが嫌いだ。食べ物ならチェダーチーズとガーリックライスだ。

 

そんな私は、マックではチーズの入ったバーガーは絶対に買わない。

カールも食べない。それから深夜のコンビニや低学力の学校が嫌いだ。

それから「すぎる」のも好きではない。頭が良すぎてもお金を持ちすぎててもダメだ。

 

そんな私は嫌いなものを避けているのだが、嫌いなものの度合い的に、近付けられたら死ぬような物はない。

チェダーチーズもデブもバカも、嫌いだが食したり接しても死にはしない。

 

要するに嫌悪感と我慢強さの問題なのだ、社会人の癖に我慢強さが足りなさすぎる。

別に自分が特段我慢強いとは思っていないが、今の人たちは警戒心が強すぎる。

アレルギーとかで身の危険を守るならともかく、ほんの僅かな擦れるような危機感に心を動かされすぎなんじゃないか?

 

簡単に繋がれるから、簡単に淘汰して選別するのか。当然の推移だが、合理性はその場その場で違っていくぞ。

何でもかんでも嫌いです嫌ですで通るほど世の中を甘くするには、まず自分が力を持たなきゃいけない事をわかってるだろうか?

世の中辛い事の方が多いのだから、尊大な強欲思想の割に努力が足らないだろう。

そんな私には他者への共感の努力が足りていないのだろう。猛省。